第25回 反逆の神話
SYUMIGAKUの第25回では、「反逆の神話」について話しました。
60年代、ビートルズが火付け役にもなったアメリカの「カウンターカルチャー」。
大人が敷いた規範やレールに従うことなく、自分たちの人生を生きよう!と呼びかけるロックスターの姿に、多くの若者は熱狂した。
しかしそれから半世紀が過ぎた現在でも、社会は拝金主義的な発想を強めたばかりではないか?ー
2021年に出版された「反逆の神話」は、このような問いに答えるために、西洋の思想史の変遷と当時の具体的な事例を交えた考察を展開しています。
今回のシリーズでは、思想史の変遷や、日本のサブカルチャーにも触れながら戦後のカウンターカルチャーについて話しています。
引用などは こちら にまとめています。
【25-1】ロックやパンクに熱狂する若者たち。なぜそれでも社会は不寛容なままなのかーカウンターカルチャーの敗北史【反逆の神話】
アンドルー・ポター(1970)、ジョセフヒース(1967)
ジャーナリスト、哲学教授、
資本主義批判・体制批判はかっこいい?
広告への批判、企業の意のまま商品を買っている人はダサい?
組織の犬として生きていくのは忌避すべき?
反逆を優位におく二項対立
社会から与えられた役割を演じていること <-> それに歯向かっていること
歯向かっているやつはかっこいい
反逆者はかっこいい、という話は、エンタメで繰り返し語られている
この本はアメリカの話だがー、日本でもたくさんある
少年ジャンプとかでもそう
大体主人公ははぐれものとか、チョイ悪、さらにはダークヒーローという形で完全に反社会的な行動をしている者もいる
少女漫画とかドラマとかでもお決まりのパターンの一つして、階級が下の人間が、階級が上の人たちの抑圧に反抗していくようなストーリーもある
逆に主人公が優等生で、大人の言う事を聞いて暮らしましたーみたいな話はあるのか?
消費主義や資本主義の批判、というのも散々語られている
最近では環境保護をはじめ、ファストフードやファストファッションを買ってる奴はいけてない、みたいな話もちらほらきく
少し前にはミニマリストブームがあったり、デジタルデトックスみたいな言葉が流行ったりもした
つまり、「ただ商業主義の犬になるのはダサい、自主性を持って反抗してるやつの方がかっこいい」ということは繰り返し繰り返し語られてきた
これは、この本によれば60年代からずっとそうであった
なのになぜ50年近く経った今でも全く変わらず、むしろ資本主義と商業主義は加速しているように見えるのだろうか?
↑ これがこの本の出発点である
ここから、なぜ我々の社会は今日もなお新商品を作り続け、労働時間も減らないのかかが分かるかもしれない
これは著者らの原体験が絡んでいる
この著者らも、一度は「反逆者」に憧れた若者だった
この本の著者は80年代に10代後半 - 20代
悪ぶったエピソードが語られている
パンクにハマる
パンクバンド: ザ・クラッシュ、セックスピストルズ
頭がトゲトゲしててピアスを開けてるのとかファッションとか
この著者の学校には、頭を半分だけ脱色した(ひかるみたいな)髪型の女子高生が転校してきて、すぐ退学させられた
そこで、もともと優等生だった著者も同じようにやってみたら、注意されるだけで終わった
しかし周りからのみられ方は全く変わった
街を歩くと、見ず知らずの人から受ける扱いが全く変わった
老夫婦から睨まれ、白人運転手から罵声を浴びせられ、キリスト教の布教要員からは機関誌をしつこく押し付けられた、逆にこれまで声をかけられないような人たちから声をかけられたりもした
この経験から、著者は自分が社会の中で特別な主張をしているという感覚を得た
人々が無意識に従っている規範に反対することでその存在を気づかせ、人々を目覚めさせることができるという感覚を持った
この体験が、おそらく著者にとってはとても素晴らしかったこと、そしてそれにも関わらず時間が経っても現実を変えることは全くなかったという虚無感が、この本を書く動機になっているのではないか、と思う
【25-2】何が民衆を抑圧しているのか?ールソー、マルクスと連なる体制批判の思想【反逆の神話】
この著者がはまったような反抗してる奴がかっこいい、という主張にもとづく文化を総称して「カウンターカルチャー」とよんでいる
カウンターカルチャーは、日本でいうところのただの不良、ではなく本人たちは明確に、今の社会のルールは間違っている、目を醒させてやる必要がある、と本気で思っているところがポイントである
ロックスターを想像するのが一番早い
ロックスターは、社会がいかに間違っているか、どれだけ自分たちが生きづらい考えに囚われているのか、を叫ぶ。そしてそれに若者が共感する
それが最も盛んだったのが60年代、ビートルズが出てきた時だった
ビートルズが出てくるまで、音楽は階級で分断されていたし、男がロン毛にしたり、ジーンズを日常的に履いたりするなんて信じられないことだった
そういう常識を、ビートルズが壊していった
そして「常識を壊して自分たちの人生を取り戻す!」というムーブメントに火がついた
ちょうど、左翼の政治運動にみんなが嫌気がさしていた頃でもあった
真面目な顔して難しそうな単語を並べるような政治運動は何も変えない、仮に変えたとしてもソ連のような抑圧的な政治になったらたまったものではない
それよりももっと、言葉にならないようなエネルギーと、誰にも縛られない自由を体現しているロックスターのように生きたい、と若者たちが熱狂していた
このバンドによるカウンターカルチャーの一つの極地は、カート・コバーンである
カートコバーンは、1994年に27歳に自殺したロックスター
Nirvanaのフロントマン
オルタナティヴ・ロック、パンクバンドのはずだったのに、売れすぎてメインストリームに躍り出てしまった
同性愛や女性の役割などに対しても進歩的な発想を持っていた
自分は反逆者だというアイデンティティを持っていたからこそ、そして先達たちのような腑抜けになりたくないなどと考えていたからこそ、彼は死ななければならなかったのではないか?
先達たちは、結局社会を変えると言いながら広告と音楽産業の稼ぎ頭にしかならなかった
現代だとヒップホップもその系譜をついでいるとある
実際、ヒップホッパーの間では恵まれない幼少期はもはやステータスになっている
金持ちの息子だと知られたらブランド価値が落ちる
ヒップホッパーは、社会の価値観なんてクソ喰らえ、といいながらカッコいい/ダサいという価値観には人一倍敏感である
こうした大衆社会や体制を批判する「反逆の思想」はルソーまで遡る
ルソーの話 : 人間不平等起源論
人間が社会を形成すると、必ず不平等と抑圧を形成することにもなる
人間はもともと自然の条件に支配されていたと言えるが、社会が出来上がってからは、所有という概念が生まれ、階級社会が到来した。結果として、自然ではなく他の人間に支配されることになった
これをルソーは一つの堕落だと考えた
進歩と知識は、人間を堕落させる
社会とは表面的には強力しあっているが、実際には互いにあらゆる害を加え合うように仕向けている。商業が発展すると、各人が他人の不幸の中に自分の利益を見出すようになる
ルソーの話は貴族階級への批判として読まれた
この流れはフランス革命へと繋がっていく
マルクスの話
フランス革命を成し遂げた大衆は自由で平等な社会を手に入れたのかと言えば、もちろんそうではない
新たに資本家階級が支配者層になった
ならばそれも打倒すればいい、というほど、話は単純ではなかった
資本主義社会が持つ「自由」の問題は大きい
働く場所、もらう賃金は見かけ上自由である
かつての封建社会のように地主に強制されているわけではない
この問題をマルクスは、資本家にとって有利なイデオロギーが広まっているせいだとして、啓蒙によって労働者に世界の本当の姿を見せるべきだと説いた
イデオロギー論が信じられた理由(ナチスの話
マルクスの話は、資本主義批判としては読まれていたが、イデオロギー論(人は支配者階級から考え方を押し付けられている)は、そこまで信じられていなかった
しかしナチスを機に、あり得ない話ではないのではないか?と考えられるようになった
一見、理性を持って行動するかに思える個人でも、一部の支配者階級の狂気によって殺戮工場を運営してしまうこともある
また、「洗脳」という言葉も一般に流通しはじめ、人は誰でも何か信じてはいけないものを信じ込まされる可能性を孕んでいる、という認識が広まった
こうして、人々は何か自分たちに取って不都合なものを無理やり、しかも自覚なく信じさせられているのではないかという発想が一般的になってきた
【25-3】フロイトとヒッピーの関係?ー無意識の発見と社会的去勢の理論【反逆の神話】
「我々は(自覚的・無自覚的に)抑圧されている」ーフロイトの理論
人々が無自覚に抑圧されているという発想が形成されたのは、マルクスの理論とナチスの事例からだけではない
フロイトの無意識の理論は大きい
それまでは、「自分にコントロールできない自分がいる」などということは普通には信じられていなかった
無意識は実在するのか?
無意識、という言葉は当たり前のように使われ、その存在を確信されている
無意識なんて存在しない、「自分は自分の全てを制御できている」という人がいたら嘲りを受ける
しかし、無意識は文字通り意識できない意識なのだから、その存在を確信するというのは仮説を受け入れている状態に過ぎない
日本でも、万葉集の時代(奈良時代)には夢に誰かが出てきたら、その人が自分のことを想っていると考えた(スピリチュアル
現代では、相手ではなく、自分の内側「=無意識」に関心がいく
こちらはスピリチュアルではないのか?
フロイトは、人間の本性ともいうべき部分(イド)は、反社会的な攻撃性を含んでいると考えた
それは、他人を傷つけてしまうかどうかを顧みる事なく、ただ本能のままに欲求を満たそうとする行為
さらにフロイトは人間は他人を傷つける事自体に対しても一種の快楽を感じる側面があるとさえ考えていた
このような攻撃性は、人間が社会化されるに従って表には出てこなくなる
しかしそれは、表に出てこなくなるだけで、まだここの内側にそのままに残っている
ローマの街が、中心部に古い町を残して外縁だけが新しい建物で覆われていくように
人間の心にある欲求はぐつぐつと煮えているが、社会化される過程でそこに蓋をするようになった
「自分の表に出ない欲望が心のうちに秘められていること」は、現在多くの人が共感・納得している
フロイトによれば、このような社会への参加は、安全と引き換えに、自由と幸福を直接的に享受する精神構造を手放すことになるという
また、文明がより理性的になっていく(中世から近代、現代へ)につれて、その禁欲装置が人の内側へと入り込んできた
中世の頃は、王様に殺されるのが怖いから服従する、という話だったのが、近代以降は、自分で自分が従うべき規律を内面化するようになった
これはフーコー的な話でもある
社会的、精神的な虚勢といえる
他人から止められているから、〇〇をしない、というのはまだ自分の中では自分の欲望を肯定できている
しかし、自分で自分を抑制していると、自分にとって何が幸福なことだったのかが分からなくなってしまう
子供と大人を対比するとわかりやすい
子供は、大人に怒られなければ自分の好きなことにずっと没頭して、疲れたら寝て、みたいな行動原理で動くことができる
しかし大人はどうか?
子供の頃は自分の欲動によって行動できていたはずが、大人はルールや社会の枠組みが外された瞬間、何をすればいいのか分からなくなる、という人も多いのではないか?
社会的要求によって、自分の欲望を断念しなければいけない、ということの極端な例は、拒食症である
もともと喜びの大きな源になっていた食べる、という行為が、痩せていなければならないという要請のために去勢されてしまった
この社会要求される「ルール」というのは法律とか、会社の規則のような明文化されたものだけではもちろんない
日常生活の小さな行動一つ一つの中にも、みんな口にはしないけど、不文律的なルールが数多に存在する
実際に私たちの行動を縛っているのは、こちらの方が比重が大きい
例えばミクロな例では「電車では他者の人生に全く興味を持っていないふりをしなければならない」「家ではよそよそしく振る舞ってはいけない」「身だしなみに大きな(些細な)変化があったらそれに言及するべき」、会話の中でも、ここは笑うべきタイミング、これは無視した方がいいタイミング、大きな声で話すべきタイミング、わざと小さな声で話すべきタイミング、驚くタイミング、などなど色々なものが規定されている
ガーフィンケルという社会学者は、エスノメソドロジーという方法でこの日常に潜むルールを明らかにしようとした
学生に実験をやらせた
家に帰って、わざと他人行儀に振る舞う実験「トイレはどこですか?」
最初は冗談だと思われるが、ずっと続けていると大体相手は怒る
学校にも苦情が入った
ガーフィンケルはこんな実験を色々なところでやって、人間が正常な状態と呼ぶ社会の行動や社会そのものも、実は多くの人が積極的に頑張ることで維持されているものだということを明らかにした
外国で暮らし始めた時には、この「明文化されていないルール」に従うことにとても苦労する
ルール化されていないルールに従うことこそ、ある個人が「自分の意思で社会の成員になろうとしている」事を表明するための行為だからである
礼儀作法は、とても分かりやすい。礼儀作法に従うことはその表面的な意味だけではなくて、自分が社会に波風立てず、善き人であろうと心がける意思がある事を示す
カウンターカルチャーは、こういった抑圧全般を敵とみなしていた
バンド演奏、前衛芸術、ドラッグや乱交も肯定されていた
我々が社会によって忘れさせられた原初的な喜びを取り戻すという行為として
そして、この社会的抑圧の蔓延は、私たち一人一人が体制に服従することによって生まれる
みんなが服従しているから、社会的抑圧がいつまで経っても残り続けている
だから、ただルールに違反しているだけでも十分な社会運動的な側面を持っているはずだという発想をみんな持っていた
強制(ルール)は不要か?
【25-4】20世紀を捉えるには?フロイト vs ホッブズ ー ルールなどなくても生活はできる?【反逆の神話】
(前回話していた)ルールに服従しているから、人々は抑圧され、自由に生きることができないという発想
このような発想は、「アナーキズム」と呼ばれる考え方と重なっている
アナーキズムの定義は反政府主義とか、無秩序主義とか色々なことが言われているが、ここでは「社会から何らかの強制」をなくすこと、だとする
カウンターカルチャー的な発想では、人々をコントロールしようとする悪い人と、その悪い人に従順な大衆の両者によって、抑圧的な社会が形成・維持されていると考える
だから悪い人が作っているルール「強制」に従わない大衆が増えれば、自ずと社会はいい方向へ向かっていくと考える
カウンターカルチャーが目の敵にするメタファー
同じスーツを着て、地下鉄に詰めこまれて会社へと向かうサラリーマンたち
これはまるで個性を奪われ、自我を抜かれた家畜のようではないか?
このメタファーは、60年代以降、今になってさえもずっと「社会的なルールに従う行儀のいい大衆」の象徴として語り継がれてきた
しかしこのような発想で作られたいくつかのコミューンは、この理論が楽観論であるということを示してしまった
コミューン = 既存の社会の枠組み(管理社会、核家族)を離れて、独自の生活共同体を作ろうとする動き
簡単にいうと、若者が主導になって村を作ったりした活動
カウンターカルチャーに共感した人間で作られたコミューンには、当初ルールがなかった
もともと社会の抑圧に反発する集団で作ったのだからそれはそう
ルールがなくても人と人は協力し合えるはずだ、ルールなんてものを作ったら自主性がなくなるし、ルールの中で都合のいい行動をするやつも出てくる、という発想があった
しかし、考えてみれば当たり前のことだが、ルールがないと適切な協力は起こらない
数人で同居しているときに、ゴミ捨てや掃除などの業務が適切に分配されないのと同じ
社会全体の幸福の最大化と、個人へのインセンティブが矛盾してしまっているので、みんなにとって最適な状態が、いつまで経っても達成されない
社会のルールの多くは、このような社会的ジレンマを発生させないためにつくられている
公衆衛生や見知らぬ他人への配慮などの細やかなルールも、社会の成員が過ごすために必要なものである
「社会が個人にルールを押し付けること」の思想
フロイトがこのことに対して、圧力鍋のように人の攻撃性を無理やり閉じ込めておくことだと考えたのに対し、他の考え方をとっていた人もいる
ホッブズ
ホッブズはあの有名なリヴァイアサン論の通り、人は無秩序な状態では万人よる闘争状態になると考え、社会が人の自由を奪うことに肯定的(必要なこと)だった
しかしフロイトと違い、人間の内面に攻撃性があるから、それを社会が封じるべきだと考えたというわけではない
ホッブズは、人が暴力的になるのはそれが本性とか本能的な衝動の一つだからではなく、他者への不信感、自分が傷つけられるかもしれないという不安感からくるものだと考えた
だからルールを作って、人々から不安を取り除けば平和になるだろうと考えた
軍拡競争が、このホッブズとフロイトの考えのうち、ホッブズを支持することの根拠である
冷戦が起こっていた当時、フロイトを支持する人たちは、やはり人は攻撃的な本性を持っているから、あのような大量破壊兵器を作る競争をしているんだと考えた
しかし、ホッブズ的な発想によれば、他国がより強力な兵器を持っているという不安感から、兵器の製造がエスカレートしたと考える
人は相手を苦しめたいという衝動があるのではなく、自分が粗末に扱われたくないという不安感の方が強いのではないか?
【25-5】反逆という順応 ー カウンターカルチャーはなぜ社会を変えられないのか【反逆の神話】
若干のネタバレ
消費と労働の連鎖をやめられないのは、人の不安感によるものではないか?
先にみた フロイトvsホッブズの枠組みで言えば、ホッブズが考える「自分が粗末に扱われたくない」という防衛的な真理によって、人はむしろ消費し続け、働き続けることになっている
反消費主義は、アメリカで流行っていた
ノンフィクションのベストセラーには「ブランドなんか、いらない」「ファストフードが世界を食い尽くす」のような本が何年にも渡って立ち並んでいる
arai.icon 日本でもミニマリストがもてはやされたり、ファストファッション批判が定期的にムーブメントになったりもしている
丁寧な暮らしとか、SNSに追われるのはやめよう、みたいな言説も散々繰り返されている
先に見たように、カウンターカルチャーは「順応するのはやめよう、企業や政府の言いなりになって、サラリーマンになって、そのお金で商品を買って、なるべく自分をよく見せようとするのはダサい」という言説を振り撒く
まさに前回見た、満員電車に押し込められて、みんなと同じ服を着ている労働者のようになり、
同じような郊外の土地に、同じようなマイホームとマイカーを買って、ほどほどの暮らしに満足するのは、資本主義・消費社会への順応であり、忌むべき事である
このような言説が60年代から繰り返されてきたのに、なぜ消費と労働のサイクルは一向に止む気配がないのか?
それはそもそもカウンターカルチャーが認識している消費行動の論理に間違いがあるからである
消費の実態は、順応する(みんなと同じものを買おうとする)事ではなくて、周りと一歩差をつけたい、ということにある
arai.iconおそらく、自分はファッションになんてまるで関心がない、なんて思う人でも、人とを差をつけようとして消費しているものが"ない"人の方が少ないだろう
spotifyで再生する音楽、スポーツ観戦、筋トレやアクティヴィティへの出費、家や無形資産、子供の学歴を高めるために塾に通わせる
このような、自分は置いていかれたくない、一歩だけでも前に出たい、という思いの集合が、消費社会を駆動させている
ここには消費を通した社会的な顕示の競争がある
もし本当にみんなが同調したいだけなら、全員が同じものを買って満足して、そこで消費は止まるはずである
人は基本的なニーズ(衣食住)が満たされると、社会的地位の表示(=つまりは名誉、カッコつけ)を満たすために消費をするようになる
基本的ニーズはプラスサムゲーム(=つまり社会全体が豊かになればなるほど、みんなで豊かになる)だが、社会的地位は文字通り奪い合いなので、ゼロサムゲームになる
自分がより上の地位に上がるためには、誰かを蹴落とさなければいけない。こうして消費活動の促進と、社会全体の幸福度(福祉)の向上がイコールではなくなる
だから先進国では、GDPと幸福度の相関が弱まる
「人並みの生活」の意味するところが、プラスサムゲームの基本的財だけではなく、ゼロサムゲームの競争的な財の占める割合が高まってくるため
これは倫理の問題だということも不可能ではないか、社会的ジレンマの問題である
誰かが一歩前に出たら、同じように一歩前に出なければ置いていかれる
これは、積極的に出世したいとか、目立ちたいと思っているような人だけの話ではない
仮に大多数の人は今よりよく見られたいとは思っていないとして、ただ今と同じ水準を維持したいと思っているだけだとしよう
しかしそれでも、周りより貧乏人だとか、見苦しいやつだとか、センスがないとか、遅れてる人間だと思われたくないという意思は持っている
そして仮に大勢がこのような動機(つまり防衛的な気持ち)で消費をしているとしたら、みんなそれに正当性を感じている
「自分は別に今よりよく見られたいわけじゃない。今と同じ水準を保とうとしているだけだ」というふうに、お互いに思っている
arai.icon 個人的意見として、ここに「周囲の人の名誉」が絡んでいるのも大きいのではないか?
自分の子供が周りの家庭に「貧乏人の子供」だと思われないようにしなくてはいけない、自分の恋人が「大したことないやつと付き合ってる」と思われないようにしないといけない
防衛の対象が自分自身だけでなく、親しい人へ移ると、消費主義への加担が防衛であるという感覚がより強化され、消費主義に加担しているという感覚は鈍化する
しかし、軍拡競争が攻撃か防衛かを問わず、軍事費の拡大が他国へとプレッシャーを与えるように、自分は防衛的な目的でやっていたとしても、結果的には「消費の競争」を激化させることに一役買っている
この競争的消費は、所謂ブランド商品のような分かりやすい「顕示的アイテム」に限らない
住む場所、進学する大学などもそう
そして趣味も大きな競争的消費の対象である
ブルデューが指摘している通り、趣味は社会階層を示す記号の一つである
そしてそれはプラスサムゲームではなく、ゼロサムゲームである
「趣味のいい人」が存在するためには、自分より趣味の悪い人が存在しなくてはいけない
そしてカウンターカルチャーは、むしろこの競争的な消費を加速させたとすらいえる
60年代以降、「ただ従順な愚民としての大衆」というブランドイメージが広まってから、
人々は「自分は自立した人間だ、ただ順応するだけじゃない」という事を周りにアピールしなくてはいけなくなった
つまり「他の人と同じものを買っている = 従順な愚民」という図式が形成された
みんながビートルズを聴くようになったら、次はパンクを聞いていないと愚民、パンクをみんなが聴くようになったら、ハードロックを聞いていないと愚民、というように、その時点の「普通」よりも一歩進んでいるものを聞いていないと、「広告に踊らされている大衆」のレッテルを貼られるようになってしまった
arai.icon日本でこのような言い方はされていないにしろ、「ミーハー」という言葉で揶揄されるのは、このカウンターカルチャーが批判している対象と重なっている
カウンターカルチャーは、「他人と違う事をしよう、規則に縛られるな」と訴える
これは新商品のマーケティングとしては絶好の機会である
こうして、「他の人と同じものを買うこと」に社会的なスティグマが貼られ、新商品の価値が高まり、商品のライフサイクルはむしろ加速したのではないか?